「人間ではなく神を神とする」 06.02.05
使徒言行録12:20〜25
大きな力を持っていたヘロデ王でした。ティルスとシドンの町の
人々は、自分たちの町への食料の供給を止めて生活に影響を
与えるヘロデ王に振り回されていました。
そして、そのようなヘロデに対して、へつらいつつではありますが、
神さまのようにほめたたえたのです。ところがヘロデ王は、天使に
撃たれて、いともたやすく倒れ、息絶えました。
大きな力を持った相手を、まるで神さまのように見なす事は、
珍しくはありません。聖書の時代のローマ皇帝や、エジプトの王も
神のような存在でした。
足の不自由な男の人を癒したパウロとバルナバを、人々が
神さまのように見なした事件がありました(使徒14章)。
その場その場で神さまを求め、右往左往し続ける人間の姿が
あります。
真の神さまとの出会いがないところで、人は落ち着いて生きる
ことはできません。 12章には、右往左往しない人々の姿も
描かれていました。
第一に、殉教者のヤコブです。殉教者は、命を奪われても、
なお信仰者としてあり続けた人です。 揺るがないものを持って
生き、死にました。
第二に、投獄されていたペトロです。処刑の前日、牢屋で、
兵士に囲まれながら、彼は眠っていたのです。
信じられないほどの落ち着きがあります。揺るがない信頼の
中にいなければ、ありえない姿です。生きるにも死ぬにも、
神さまに信頼しきっているのです。
第三に、教会の姿があります。捕らえられたペトロのことを
祈っていました。何を祈っていたのでしょうか。
教会の人々は、牢屋から解放されたペトロが教会に現れた
ことが信じられませんでした。牢屋からの開放だけを祈って
いたのではないからでしょう。
では、何を祈っていたのでしょうか。一切を主に委ねる深い
信頼の中で、ただ主の御心が実現することを祈っていたのでは
ないでしょうか。
神さまを真に知るものは、そのように、深い信頼と
落ち着きの中で歩んでいたら良いのです。
聖餐式に現されている恵みは、安心を確信させてくれます。